昭和五十四年六月四日 朝の御理解
御理解 第九十三節 「氏子ハ神の守をして居る者を神と心得て参詣する守が留守な ら参詣した氏子ハ今日ハお留守ぢゃと言はうが神の前をあけ て置く事ハ出来ぬ萬時に行届いた信心をせよ常平生心にかみ は皆同じやうに神の氏子ぢゃによって見下したりきたながっ たりしてはならぬぞ」
最近、総取次者ということが言われます。「お道の信心をさせて頂く者が総取次者になった自覚をもって合楽風に言うと、示現活動に参画せよ。」と、いうことになるのです。だから皆さん、今日は一つ取次者になった、ま、お取立を頂いているつもりで頂いて頂きたいと思います。
勿論、このご理解は取次者に下さったみ教えですから、昨日もやっぱりここでしたね。ま、昨日の続きというわけではないわけでしょうけれども、おかげを頂かなきゃいけません。
信心が常識的になったら、その信心は生きた働きを現すことはできません。どこまでも神様の智恵をもって、お導き下さるのですから、私共も、その智恵にいつも導かれて、言うなら誘導されての信心生活に入っていくから、初めて、信心のある者とない者の違い。
それこそ、親のある子とない子程のちがいがうまれてくるのです。
ね。そこからね、ここ二、三日言われます。本当に勿体ないな、有難いことだなあ、と、それこそ、神様から撫でさすりされてくるような実感がうまれてこなければ、信心は成長しません。
ただ苦しいから難儀だから信心しておる、参っておると言うのではだめです。
本当に神様・・・、それこそ安武先生ぢゃないけれども、ね、「こんなに有難うてよかろうか、こんなに勿体ない事でよかろうか、心に感ずる有難いというものは、これは本なもんぢゃあるぢゃろうか。」と、自分で感じれれるような信心にならんとね、信心がじゅつのうなります。それこそ神の前をあけてばっかりおろうごとなります。ね。
神の前に奉仕をする事が、じゅつなくなる、教えにしばられておるということが窮屈になる、ね。それが、それこそ親のある子とない子程のちがいですから、ね。神様が自由きままは許されません。
所謂、神様のおしつけを、ね、しつけを受けるのです。
親があれば子供に対して、やっぱり、小さい時からいろんなしつけをするようなものです、ね。
汚れておればふいてやり、ね、曲がっとれば、まっすぐしてやりね、垢のついた着物つけとれば、そんな事はできません。やっぱ、いつもサッパリとしてやるのが親でありますようにね、親のない、言うなら浮浪児のような、金があれば自分で何でも買い食いが出来たり、そのかわり汚れとろうが曲がっとろうが、誰もどうも言い手がない、ね。
だから、信心のない人達の自由の姿を見てね、「ああ、信心のない人達がうらやましい。」と、いったような心がおこったんでは、信心は出来ません。
「ほんに信心しとるばっかりに、こげん朝早う起きせんならん、朝参りをせんならん。」と、言うような心が、ありゃすまいけれども、そういうことでは信心はでけん。神様の特別のおしつけを頂いておるのだから、だからこそです、それこそ親が、ね、撫でさすりしてくれるような実感も頂けるのです。ね。
例えて、ここで言われます“楽はせんぞ”と、言うような修行をさせてもらうからこそ、させずにはおかんという働きがうまれてくる。
させずにはおかんという、その働きが、「もう、勿体のうして勿体のうして。」と、言うことになるのです。自分が我がまま勝手に自由にして、なら、楽をしょったんではです、ね、ちょっと窮屈なこと言われたら、もう、それがじゅつのうなるです。
それこそ、言い訳にならない言い訳をして神から離れる氏子がある、と仰るがね、言い訳にならぬ言い訳をして言うならば、信心のない者のような生き方になろうとする。これでは、親のある子とない子程のちがいなんてうまれてもきませんし、それこそ、勿体ないなあ、と。
とても、「あれが食べたい、あヽしたいこうしたい。」と、いう事は思いもしませんが、神様が食べさせずにはおかん、させずにはおかんという働きを受けた時に、「こんなおかげを受けてもよかろうか。」と、いうような有難い勿体ないが出けてくるんですよ、ね。
神の前をあけておいて、あけるということは、ね、それが、じゅつないから退屈するから、自分のよか勝手な事をするから、神の前をいつもあけとかなきゃならんのです。
一昨日、遠方から参ってきたご信者がありました方の話でございましたけれども、あちらあたりの教会では、先生方の中で麻雀がはやっとる。だから先生を麻雀の相手として信者が参ってくる、ね。
よう、碁、将棋なんかをやる先生がありますと信者が、碁、将棋の好きな信者が先生を相手に、お神様に参るということは、将棋やらを出来るとが楽しみに参ってくる、ね。どうも教団の中にそういう傾向があるんです。まるっきり、お広前はクラブのようになっている、ね。若い者が集まってきたらレコードをかけて、レコードコンサートをしたり、ね。所によっちゃ、ダンスの教習所ぢゃなかぢゃろか、と、言うような所があるそうです。やっぱ集まってくるそうです。ね、やっぱ好き者がおりますから。そこの昨日、お届け聞いたところでも、先生が麻雀をされるそうです。だから、麻雀好きな人が、信者と言うよりも、ね、そういうようなね、言うなら人が集まってくる教会に、ただ、したい。ためには、こう支出もいる。
こういう・・・、最近それがあるんですよ、いろいろ施設を、ね。
お広前の横には遊び場があって、碁か将棋ができるごとなっとり、まるっきり床屋さんのごとなっとる。
昔はそうでしたね、床屋さんに行くと碁、将棋がちゃんと、すぐでけとる。町中の、ね。
教会が、そういう遊びの場とか、クラブのように、それでも、確かに人があつまる。「だから、ここはもう、助かりの場といのぢゃない。人が集まりさえすりゃよい。」と、言ったような、ね。
金光様のご信心は、人が集まりさえすりゃよいぢゃない、人が助かりさえすればよいのが、金光教のお広前でなきゃならんのです。ね。
これでは、やはり先生と言うてここに座っとったっちゃ下りてから麻雀の相手せんならん。ね。
だから、成程、常識的に言うとです、人を集めるということにはそういう手立ても、ま、いるかも知れませんけれども、それでは、なら、今日あたりの、ね、神の前を開けておく事はならんと仰る、ね。もう、神の前に奉仕する事が退屈になる、いやになる。そして自分も一緒に遊び好きの先生になってしまう。ね。
ここには、私は助かりの場というのも、いよいよなくなっていくと思うですね。そして、いろうな理屈を言うて、言うならば、理屈にもならない理屈を言うて、神様を遠ざかっていくような結果になるのです。
どうでも、いよいよ、ね、本当に、これはね、形のことぢゃないです、心に感ずること、ね。心の状態の中に、もう本当に、こういう有難いというものは、自分で有難うなろうとして有難うなるものぢゃない、与えて下さるのです、ね。
それにはね、やはり、「それこそ、楽はせんぞ。」と、言った様な修行も大事であると同時に、いよいよもって、ね、神様の生々とした働きを身近に感じれれる、ために、いよいよ、ね、「神様のおかげを頂くより外に手はない。」と、いう生き方を身につける以外ないです。
「自分でする。」と、いう、ね。一昨日の、月次祭の、昨日、梅の実会でしてから、皆さん一緒に聞かせて頂いたんですけれども、もう本当に、私は昨日、聞かせて頂いて、昨日のそのお話の中に出てくる一つの例話というものが、それと昨日は、同じお届けがあったのに昨日おどろいた。だからその事をお届けした人も、テレビを見せて頂いとった、もう今日、自分がお届けしたと同じ事が、月次祭の夜の御理解に出て来た。ね。
それはどういう事で、そういう、お届けする位、難儀の問題でしたけれども、ね、どうしてそういう難儀な問題になるのか、と。結局・・・月次祭のお説教は、ま、問題を言うならば、「自分がするという信心にはおかげがない、させて頂くという信心におかげがある。」という、御理解でしたよね、大体そういうご理解でした。
自分がしとるから、そういうような問題が、自分だけの事ではなくて、周辺にまで、そういう難儀な問題が波紋のように広がっていくのである。それが反対にです、ね、させて頂くという事であったら、もう、御礼を申し上げる以外、何もないし、また、させて頂くという事になっておったら、そういう難儀な事にもならんですんでおった。必ず神様の御都合おくり合わせというものが、それこそ、神様のおかげを頂くより手はないのですから、もう、神様がその場に、手にもなって下さる、足にもなって下さるような働きがおきてこなきゃならない。ね。
それが、自分がしとるものだから、手にも足にもなる人が誰もいない。 だから、そこには爆発的な、言うならば、事になって、もう、大くの人を傷つけねばならない結果がうまれてくる。
私は、それを聞かせて頂きながら、「丁度あんた方の、今日のお届けといっちょん変わらんの。」と、言うて、言うた位でした。
あんまりにとるから、びっくりしました。そして片方のは実験です、昨日のは、悪い方の実験です、ね。「私がする。」と、いう事にはこういう結果しかうまれてこない。「神様のおかげを頂く。」と、いう事になる。「神様のおかげを頂くより外に手はない。」という生き方になったら、片方の方は、神様が手にも足にもなってくださって、「万事万端御都合御くりあわせを頂いて、こげなおかげを頂いてもよかろうか。」というようなおかげになってくる。勿体ない、有難い。
だから、もう、神の前を、とにかく、あけることが勿体ないね。
これは、皆さんで言うならば、ね、神様の教えから外れる、という事は出来ない、ね。それを、例えば、窮屈に感じたり、言うなら、窮屈どころか、その中に教えを頂いてる事の有難い、言うなら、親のある子とない子のちがいをです、私は感じれれる信心を頂かなければならない、と、思うのです。常平生から、それこそかみしもをした信心が出来ないか。昨日、研修が、私の話を聞いてもろうて、そして研修をはじめるのに、若先生に、「あんた、今日は司会させてもらいなさい。」と、したら言うことが、「いえ、今日は頭がボヤッとしてから、どんこんいかんけん末永先生どうぞ。」と、言うわけですよ、ね。かみしもをつけたような信心が出来とらんから、 お道の信心をさせて頂いて、しかも朝参りでもさせて頂いとる皆さんの場合なんか、もう、取次者の中の取次者と言うてもよか位でなからねばならんです。総取次者といったような表現から言うと、なら、まして黒衣をつけて、お道の教師をして修行させて頂きよる者は、いつどういうようなお取次をせなかわからん。その時は、頭がボヤッとしてるけんで、で、すむぢゃろか。それこそ、「何かお話して下さい。」と、言うたら、もう、それこそ、いつでも自分の心の中に、今感じておる有難いと思うか、相すまんと思うか、その話ができれば、それでよいのである。ね。 取次の先生方が、今日あんたが司会をしなさい。
この前の三十一日の御礼信話会の時には、初めて坂根先生が、坂根先生にさせました。そしたら丁度、もう睡うして睡うしてこたえんところやったげな、だから、その事を一番に話ました。もう、びっくりしました、「もう今日は睡うしてどんこんでけんぢゃったけども、ね、司会せろ、と言われてびっくりしました。」と、いう、もう自分の実感を伝えるから、あとはどんどんお話がでるのです、ね。
もう睡かけんで今日は、もう研修にはご無礼してから早う寝ろ、と、言うようなことではおかげにならん、睡いけども出て来とる、ね、だから突差に言われても立派な司会が出来るんです。
お話というものは、やっぱり実感ですから、睡いなら、睡いという事を先に言うたら、あとは話がでてくるです、信心の話というものは必ず。
だから、なら、皆さんでもそうです、どこで示現活動せんならんかわからんからです。いつでも、どんな場合であっても、それを信心で話せれる私はおかげを頂く。そういう人が、私は取次者、そういう信心者と言うのでしょうね、総取次者とは。
常平生からかみしもつけたような信心をしとかねばならない。
もう本当に、やはりどこででも、いつでもお取次が出来る位な、ま此処の言葉で言うと、示現活動が出来る位な信心は、身につけて頂きたいと思いますね。その内容になるものはです、「自分がするにはおかげはなし、させて頂くという心におかげがある。」と。神様のおかげを頂かなければ出来ることではなし、言うなら「神様のおかげを頂くほかに手はなし。」という信心をいよいよ身につけさせて頂いたら、ね、そこから神様のおかげを頂かなければ、立て行かんのですから、いつもすがっとらんわけにはいかん。
なら、それはいつも窮屈なことかと、教えの中にいつもおらねばならんということは、窮屈なことかと言うと、それは成程、窮屈と言へば窮屈かも知れんけれども、ね、だからこそ、こげな、それこそ神様から撫でさすりされるような実感というものが、必ず頂けれるのす。勿体ない、ね。その勿体ない心がです、私は、言うなら、その前にございますように、力になると思うです。
「あの教会に参ったけれどもおかげが頂けなかった。こっちの教会に参ったらおかげ頂いた。」と、言うのが九十二節ですよね。
「神は一体ぢゃによって」というご理解の中にそれが出てくるんです。「人が助かるということは、その守々の力によることだから。」と、教えておられます。ね。
だから、お広前にです、ね、座っとる先生の力によってたすかる。
だから最近は、先生にそういう力がなくなっても、助からんでも、ね、麻雀の設備をしたり、ね、レコード買うといて、レコードどん聞いたり聞かせたり、それこそお茶ども出したりして、まるっきり喫茶店に行くよりか安うつく、と、いうごたるふうで集まってくる様な傾向があることになるのです。
だから、そういう傾向の教会であってはならないし、また、そういう傾向の信者であってもならない、ということ。
どこまでも生々と、それこそ、ちょっとまちごうたら神様がパッとお気付けを下さる、それは親があるからなんです。
信心しておってもそれを全然感じもされない。親のある子とない子ほどの、いや信心のある者もない者も同じ、ただ普通でいう常識的な生き方の信心では、結局、常識的なところから一歩も出ることはできません。超常識と言うような超というところが、助かるということなんです。
昨日、綾部さんのお導きで毎日参って見える方がおられます。私と同年だそうですけれども、もう、現在の医学ではどうにも出来ないガンですから、それが、やっぱ医者に言われて、もう、大変ショックを受けておられる。そこへ綾部さんがお導きで今、毎日参って見えます。ね。 四、五日も参って来られた時でしょうが、丁度私がここを退がろうとしておる時でしたから、もう退がりましたからお茶を一つあげましょうか、と言うて、お茶の間でお茶を上げさせてもろうて、そして二人に、ちょっとあんた達に見てもらうものがあると言うて、私の手洗いの洗面所の、さしてある花を見せて、一番初めに参って見えた時にその花を頂いたんです。と言うのは、小さい花瓶にですね、花が一輪さしてあるんですけれども、あの、くきというのが、分位しか花瓶の中に入らんのです、葉があるから、ね。ですから毎日水をさしかてんと、もう水から放れるわけです。
「この花を、だからあなたが毎日来なさりゃね、丁度お水の中につけておるようなものぢゃから大丈夫これは生々とおかげになりますよ。」と、ね。
私はお茶をさしあげるため、あちらに来てもらったのをよか幸いに、それを見てもらった。ま、それから本当に毎日ご神米を一体づつ頂いて、毎日日参をする。だからもう、医者にも行くまい薬も飲むまいという心が段々出来てきて、それこそ水々しい生々とした、何とはなしに、あくる日に見えた時には顔色がちごとったような感じであった。
たら、昨日お参りして見えてからですもん、そげん言うて家内に・・、奥さんという方が、もと学校の先生か何かなさって、非常に理屈、いわゆる常識でいかれるかたです、「そんな冒険なことがあるものですか。」と言うて、もうまっ向うから反対された。だからまた、「ほんにお前が言うことがほんなこつ。」と,いうことになって、「ぐらついておられる。」と、いうお届けが昨日あったんです。だから、そりゃもう常識的に言うたら、奥さんの言われるのが本当なんです。ね。
「けども、合楽の信心はどこまでも超常識ですからね。」と、言うて、それからまた、昨日のご理解頂いて元気をつけて帰られたことだろうとおもいます。ね。
一昨日、その、遠方から参って来たというその方もです、奥さんが脳ミソがね、時々たぎってくるんだそうです。そすと、その脳ミソがね、酢になるげな、そしたら、もうそれこそ頭にハンマーで叩かれたごたる衝激をうけると同時にパタッと倒れなさるそうです。
それがその、その教会でサイクリングがあった。だから、「私はもうかたらん。」と、言うたら先生が怒んなさった、ち。「そげなこっちゃでけん、行かにゃいかん。」ち。その時から、それがおこったんです。「先生の言われる通りにしたけんおかげ頂いたぢゃなくて、先生の言わっしゃる通りの事をさせて頂いたら、こういう結果になった。」ち、言うのですよ。そしたら、先生が言われることは「小さい病院に行かんで大きな病院に入院してから養生しろ。と、こう言われた。」と、こう言うのです。
けども最近、合楽の信心に大変傾倒しておられますから、お願いすると、そこでもここでも、おいさみがあるげなもん、ね。だからこりゃ神様の生々とした働きを頂いとるから、と言うて、ま、そういうことだけではないけれども、お参りされて、だから、そげな医者やら薬やら止めて、しかも医者は病名さえわからん。治療の仕様がないげなもん。そげな病気はなかげな、脳ミソがたぎってきてから酢になる。
それこそ聞いた事もなか、 なめちばしみらっしゃたぢゃろか。(笑い) 私は昨日、高橋さんに、「そげん脳ミソのごたるとがあるの。」ち、聞いたら、「あります。」ち。
「柔らかな、丁度、言うならば、フクの白子のごたる。そりゃもう、ちりどもしたらよかろの。」ち、言うたことでしたけども。人間の体ち、そりゃフシギなフシギな細胞というか、そういう仕組みに出来とるわけです。それがどうしたことか、それがたぎってくる、ち、言うのぢゃから、ね。そういうむつかしい病気ぢゃけん、私が、「合楽の神様はそげんとが専門ぢゃから、もう、病名のわからんごたるとが専門だから。」と、言うて私は話したことでしたがね、一昨日。ですからね、神様から本当に、日頃、撫でさすりされとるような実感がある時でなからなければ、こういうお取次はでけんて。
皆さんでもそうでしょうが、確信をもって人にでも伝える時には、やっぱり自分の心が神様に生々して有難い時でしょうが。ね。
そういう助かりが頂ける私は、お道の信心は信心だと思いますのに、それが常識化していくならば、もう、いよいよ信心のある者もない者も同じことになってくる。
親のある子とない子のちがいがなくなってくる、ね。
私共、なら皆さんもそうばい。
親のある子とない子のちがいをです、しつけをされる時に、あの信心のなか者ばうらやましか位な思い方がおこってくるとするなら、そりゃもう大分常識化しとるとですよ。この辺のところを一つ見失わずに、お互い一つそういう生々とした示現活動の頂けるようなおかげを頂くことのためにです、ね、「我取次者、というふうな自覚をもって、いよいよ信心の力を頂いていかなきゃならん。」と、思うですね。 「 どうぞ 」